地域新聞辻堂タイムズ
 
辻堂物語 その1
 

 いかなる集落(村)にも“誕生のいわれ”というものがある。
  辻堂の集落(村)の場合どうなのであろうか…。
  はるか昔にさかのぼり「辻堂の成り立ち」について探っていきたい。

■七世紀半ば  〜地形・人々の暮らし〜

 大化の改新(645年)によって相模国にも国府が設けられた。しかし、その当時は、辻堂付近に集落と言えるほどの住民が住んでいただろうか。史書には見当たらない。しかし、この地もその管轄に入ったのである。いかなる荒蕪地であろうと土地は土地なのである。
  当時の辻堂のほとんどは砂丘地であって、所々に松林が繁茂していた。その間に田や畑が僅かばかりあった。東南には引地川が流れている。南部一帯は砂漠といっていいほどであって、それがすぐに相模湾に面していた。人家は、字、二ツ家・出口、久根下・堂面・中央の東西南北などの五ヶ所に分かれて住んでいた。松林が多いので日常の炊事のための燃料や冬期暖房のための薪や炭には不自由しなかった。
  農地のための地質は茶褐色の細かい砂が混ざりあい農地にはあまり適さなかった。そんな土地なので大麦や瓜や、なんとか地に適す稲・ジャガイモ・桃・茶などをどうにか栽培した。土地の水利はよくなかった。その反面、降雨が多いときには洪水の心配があった。
  かつて「辻堂」に農業者として人が住むということに関しての地理的条件は決してよくはなかった。砂丘砂質は、生活基盤である農業には適地とはいえない。ここに住めば多くの困難があることは解っているはずなのに。あえて人々が入植したかというのは何らかの理由や事情があったのかもしれない。なぜか…。

 次回は、「辻堂の集落の形成と発展」についてふれる。  

辻堂物語※参考文献 「わが住む里第51号 重田寿著」
藤沢市総合市民図書館

 
   
 
2010年10月号地域新聞辻堂タイムズ掲載記事