地域新聞辻堂タイムズ
 
辻堂物語 その2
 
 
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■鎌倉街道と「辻堂」
  鎌倉幕府の成立により鎌倉が東国の政治的中心となってから、各地へ結ぶ道路が発達した。とりわけ京都・鎌倉間の交通は最も重要視された。これまでの「東海道」は古道として復活することとなったが、鎌倉は東海道よりそれたところにある関係上、新たに東海道へ繋ぐ道路が必要になってくる。それが「鎌倉街道」といわれる幾条もの道路であり、その中の一条が「辻堂」を通っている「鎌倉街道」であった。京より東下した場合、懐島(茅ヶ崎市)あたりから腰越方面までの間は、八松ヶ原や砥上ヶ原(*)を通ることになる。「辻堂」は八松ヶ原と呼ばれる中ほどにあった。
■始祖物語
  「辻堂」を語る場合、必ずここの祖族と考えられる「十七族」ということが登場する。時は建久年間(1190〜1198年)、西国の落ち武者十七名の一団がここ「鎌倉街道」沿いに居を構え、移り住み土地の開発にあたったという伝承がある。落ち武者というのは、平家の残党の意味で、必ずしも平家の血筋の延長というわけではなく、下級武士、名もなき武士も含まれていた。


■集落の誕生
  集落は土地が存在するだけではなく、人が住むということによって形づけられる。辻堂に、いつから、そしてどこに人が住み始めたのか…一説には、鎌倉時代の初期、宝泉寺の付近、つまり「辻堂」における道路集合の接点の地からであったといわれている。はじめは東と西に住み、次に南北に増加していったという。「十七族」が集落生成の原動力となり、その子孫たちや他の地域からの移住者との協力により、その後、辻堂は繁栄をしていった。
  辻堂(集落)の誕生は、平家の滅亡…、そして鎌倉幕府の成立、鎌倉から東海道へ通ずるための街道の整備、その中の鎌倉街道といわれる道路の創設が、集落誕生の主な理由だといわれている。
(*)砥上ヶ原(とがみがはら)…藤沢市南部の荒野を指す古地名。「八松ヶ原」…鎌倉時代に弓の練習場として八つのまとを作ったため「八的ヶ原」(やまとがはら)と呼ばれていたが、松が多くはえていたために、後に「八松ヶ原」(やつまつがはら)となった。

※参考文献 「わが住む里第51号 重田寿著」
藤沢市総合市民図書館

 
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辻堂物語宝泉寺 
 
2010年11月号地域新聞辻堂タイムズ掲載記事