地域新聞辻堂タイムズ
 
辻堂物語 その2
 
 

■江戸時代の” 辻堂“   元禄13年(1700年)辻堂は旗本の領地となり、保々、戸田、高木、森川の四氏が当時130余戸の農家を支配し、宝暦12年(1762年)には再び幕府の領地となった。

■辻堂(村)の原形   江戸時代の辻堂といえば「本村(東町・西町・南町・北町の四つ)」と「二つ家」の2つの集落でできた地域であった。二つの集落以外にはほとんど家はなく、一帯は畑と松林と雑木林で覆われていた。かつての辻堂の人々のくらしは農業と漁業が中心であった。参勤交代などで街道が賑わった江戸時代には魚の干物を持って東海道筋まで売りに行っていたという。農業においては、元禄時代の検地帳によると、良質の上田・上畑は少なく中・下々と記されたやせ地で、米の収穫量は少なく畑作が主であった。徳川時代の中期から辻堂の砂丘地帯(現在の国道134号と戸塚茅ヶ崎線にはさまれた地帯)は幕府の砲術の練習場として使われるようになり、その後、太平洋戦争が終わるまでこの地は海軍の演習場として使われ、戦後は昭和34年に返還されるまで米軍に接収されていた。
明治21年町村制が施行され、辻堂、大庭、羽鳥、稲荷の4つの村が合併し「明治村」となり、このときより村名はそれぞれの大字名となるに至る。

 

参考文献:「わが住む里第51・53号重田寿著」藤沢市総合市民図書館、「藤沢の地名」藤沢市発行その3辻堂物語

 
 
2011年1月号地域新聞辻堂タイムズ掲載記事