地域新聞辻堂タイムズ
 
辻堂物語12  耕余塾 その2
 

 藤沢の羽鳥の地に25年間続いた耕余塾は、各界のリーダー、明治維新後の日本の近代化に貢献した人材を多く世に送り出している。その筆頭が「名宰相・吉田茂」。11歳で入塾し5年間を耕余塾で学んでいる。医者で民権家の「平野友輔」は衆議院議員になり、神奈川県の医師会を創立させている。また、藤沢町長の「金子角之助」、衆議院議長「中島信行」、農学博士「外山亀太郎」、味の素を創立した「鈴木三郎助兄弟」など、神奈川県で640人、その他全国から多くの塾生が耕余塾に集まった。
  さて、耕余塾は実際、どのような学校だったのだろうか。入学年齢は原則14歳以上の男子。ただし小学年齢でも学力の度合いによって入学が許可されていた。通学か寄宿制。学年は第1学年から第4学年、等級が8級から1級まであった。授業は午前8時から午後4時までの9時間授業。読書、算術、習字、修身、作文の5学科があった。明治18年からは、英学の大家「平井忠雄先生」を招聘し英学科が設けられた。明治23年からは「耕余義塾」と名称を変更し、高度な学問の授業がなされることになった。本科3年では、数学、地理、漢学、経済学、化学、代数、幾何、動・植物学、簿記、翻訳、英習字、和習字など様々な分野に及んだ。
その「耕余義塾」は、明治30年大暴風雨のため塾舎が崩壊で閉塾となった。
  羽鳥にこのような素晴らしい” 学び舎“ があったということを私達は心に留めておきたいものだ…。

   
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小笠原東陽(1830〜1887年)
明治17年肺結核を患い58歳をもって永眠。教育への功績に対し、明治10年神奈川県から、明治16年文部省から表彰をされている。
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耕余塾の模型

明治公民館の2階の「明治郷土資料室」には、耕余塾や読書院、小笠原東陽の家の模型も展示されている。当時の学生、教師たちの生活に想いをはせてみよう。

   
 
2011年12月号地域新聞辻堂タイムズ掲載記事