地域新聞辻堂タイムズ
 
辻堂物語 その4
kaigarayama
 

貝殻山(現在の浜見小学校付近)より別荘地を望む辻堂物語その4参考文献:「辻堂のあゆみ」辻堂行政センター発行 藤沢市文書館蔵書  写真:藤沢市公文書館資料 「辻堂」にはどんな方々が関わってこられたのだろう…。辻堂東海岸・西海岸・太平台の昔とは…。


「辻堂」の開発はなんといっても大正5年辻堂駅の開発に始まっている。駅の開設にあたり、地元より2100坪の敷地を無償で提供してもらいやっとのこと出来たというが、有志の方々のご苦労がしのばれる。駅が開設されてまもなく、辻堂東海岸、旧日の出橋付近に文部・大蔵大臣等を務められた三土忠造さんが別荘を建てられたのが始まりとなり、次第にその数は増していった。

辻堂西海岸は少し遅れ、大正10年に当時文壇の大御所であった中村武羅夫さんが別荘をつくられたのが始めである。この頃、西町(現在元町2丁目)の素封家桜井兵四郎さんが桜花園の開発に着手、大正15年3月に「文化住宅趣味の生活時代が出来る桜花園開拓」の見出しのチラシを東都の新聞に折り込み、大々的に売り出したという。

眺望に優れた太平台は実業家の平沼覚治郎さんが昭和7年から開発に着手、9年に盛大なる祝賀式を催し、更に平沼さんによって新設された大平橋(旧木橋)は当時町長であった大野守衛さんと平沼さんの頭文字をとって大平橋、そして土地は太平洋を眼下に眺めるというので太平台と名付けたという。

これらの開発以前は太平台から浜見山、西海岸にかけて松林が深く、狐、狸、兎などがいて、夜網帰りの漁師達がよく狐にバカされ篭の中の魚がいつの間にかなくなっていたというから、今考えるとうそのような話である。

中村武羅夫さんがお住まいの当時は、住まいは山の中の一軒家状態で道らしきものもなく、郵便配達夫に敬遠され500m離れている農家のお宅に郵便ポストを置かせてもらい、奥さんが毎朝、雑草を分けて取りに行き、ついには自費で道路を造り桜花園道路に重ねたという。

 
 
2011年2月号地域新聞辻堂タイムズ掲載記事