地域新聞辻堂タイムズ

歴史を探訪する
鵠沼今昔物語
編集・資料提供:鵠沼郷土資料展示室



 前回の続き

この間、奈良〜平安時代、大庭〜鵠沼一帯は「土甘郷」(とがみごう)と云われていましたが、平安末期の伊勢神宮の記録『天養記』の中で『鵠沼郷』の言葉が出ており、湿地帯に鵠(白鳥の古名)の飛来する沼、鵠沼(久久比奴末)郷となったようです。

 この地はその頃鎌倉権五郎によって拓かれた「大庭御厨(おおばみくりや)」という伊勢神宮の荘園の一部をなし、鎌倉・室町時代まで存続したようですが、小田原の北条氏に攻められ・さらに「太閤の小田原攻め」で徳川家康の領地となり、江戸幕府開設で幕府領・旗本領・一部が寺領に分けられました。
 その頃の鵠沼村は現在の鵠沼地区の北西部、皇大神宮のお祭りに人形山車を出す九
つの集落が中心で、境川の渡し場に石上、街道整備で東海道が通ると旅人相手の引地の集落、幕府の新田開発奨励での入植者が開いた新しい耕地、新田集落が出来ました。
彼らは引地川に沿った鵠沼海岸付近まで新田を広げ納屋(なんや)の集落も形成しました。これが古来からの鵠沼村村落の形成です。明治維新当時、上村(かむら)から始まって引地に至る鵠沼村には二八四軒の家しかなく、行政により屋敷番号が付けられた時代が有りました。この鵠沼村も明治41年に藤沢大阪町・明治村と合併して藤沢町になり、地域は大字鵠沼となり、四〇〇年にわたる鵠沼村の時代に終わりを告げました。

 一方鵠沼の南東部の地域は江戸時代になると沿岸流に運ばれた相模川の砂によって湿地は砂原に変化しました。海岸は地引網の漁場となり鰯漁が栄えました。此処は幕府領だったため、江戸時代中期に「鉄砲場」と呼ばれる幕府の実弾射撃訓練場が置かれ、田畑の開拓は厳しく制限されました。明治維新と共に鵠沼鉄砲場は廃止され、この跡地の境川河口、郡境から引地川に挟まれた荒漠な土地の大半、二十五万余坪の広大な土地を元九州大分府内藩主だった大給松平家(後の大給子爵家)近道氏が入手しています。
*その他の資料や詳しくは鵠沼郷土資料館へおこしください
鵠沼郷土資料展示室(鵠沼市民センター内) 第三月曜休館
TEL/0466-33-2001  
其の三
●結核の療養、そして別荘地としての鵠沼 


 当時京浜の都会で不治の病、肺結核が蔓延し始め、其の唯一の対症療法としての転地による保養・療養が上げられ、この地の自然環境と海水浴、海気吸引の効用とが医学博士ベルツの推奨する。のちのちに一躍注目される所となりました。折しも、鉄道、東海道線の敷設、明治20年開通、藤沢駅の開設が決まると、来客を見込み、海水浴場が19年に開かれ、海岸に旅館が開業しました。それを受けて鵠沼海岸を別荘分譲地にと言う話が本格的に進められたといいます。これが我が国最初の大規模な計画的開発・分譲が行われた「鵠沼海岸別荘地」で現在の高級住宅地です。

 大給家では以前から拘わりの合った木下利吉・米三郎氏、「鵠沼館」(こうしょうかん)・「東屋」に携わった伊東将行を差配人に別荘地開発を目論みました。木下・伊東等は南北に連なる砂丘の列に沿い幾筋かの南北の道と間道を配した道路網と水路を巡らし、クロマツを植樹し、別荘地を開発、一町歩単位の地割りを施し、分譲を始めました。明治35年の江ノ電の鵠沼を経由しての藤沢〜片瀬間の開通がきっかけで、華族や財界人が大別荘を構えるようになり、一方で貸別荘を営む者も増えました。

 こうした貸別荘に常住したのが、白樺派の文士や岸田劉生(りゅうせい)を取り巻く草土社の若き画家集団で、鵠沼を知らしめました。賀来神社境内に「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」が建立されたのは大正9年末ですが、この段階で別荘地の分譲は一応の成功を収め、別荘族を相手にする商店や別荘の補修を商売にする人々も集まって来ました。
其の四   関東大震災後の鵠沼
片瀬新道昭和26年市役所が出来た時秩父宮体育館や消防署辺り 若尾山の望楼
  大正十二年九月一日に襲った巨大地震は別荘地の家屋を壊滅させましたが、幸いこの地域での火災の被害は一軒のみであり、海浜で有りながら引地川の東への横断した蛇行、高い砂丘で津波の難は免れ、鵠沼南東部は新時代を迎えました。

 震災後の復興は、急ピッチで進められ名旅館「東屋」は、翌年には、テニスコート・遊戯室・車寄せなど備えた新時代の様式で再開しました。

 別荘地にも意匠を凝らした家構えの屋敷が建ち並び、定住の高級住宅地と化してきました。 またこの時代から自動車が、人々の生活を大きく変化させてきた。人力車の時代から円タク、自家用車の時代に変わって来ました。

 しかし、幸いなことに鵠沼海岸別荘地内は、人力車時代の道路網が残り、静寂が保たれているが、大型車が通れない場所があり震災時には危惧されている。

 復興が一段落した一九二九(昭和四)年、別荘地南部を横断して小田急江の島線が、開通、鵠沼海岸駅が開業しました。小田急線の南側に並行する道路には、別荘地発祥の大正初期から商店街が形成されつつあったが、小田急の開通で、店数が増し賑やかな「鵠沼銀座」と発展した。

また、西海岸の住宅地開発も進み、定住化は、子弟の教育に「湘南学園」を誕生させた。
(続く)
 

知っておこう鵠沼の災害、昔、今、これから
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その六 
 戦争終盤、硫黄島・沖縄諸島が陥落すると相模湾が連合軍の本土上陸作戦地点とほぼ決まり、日本各地から老兵士が満足に銃も無く動員され各学校に駐屯した。

 毎日飛来する敵機は次のターゲットのビラを撒いた。小型機はゲームの様に機銃を撃っては旋回してこちらを眺めていた。そして平塚は7月16日・小田原は8月14〜15日に百機を超すB29で攻撃された。藤沢は24日に予告されていたが、8月15日の終戦で免れた。

これには広島・長崎の二発の忌まわしい原爆の投下があった。 8月27日、相模湾は終結した連合軍の艦船で埋め尽くされた。水平線が見えぬほど船船船であった。

 占領軍が第一番に鵠沼で始めたことは、砂で埋もれた湘南海岸道路(現134号線)の砂
の撤去だった。

 大きなダンプカーで大変な台数であったが一週間ほどで道路はかたずいた。次はジープに乗った兵士が洋館のあるお屋敷の門柱に黄色のペンキでFXの標識を付して、後日通訳とやって着て、接収した。

このコーナーは鵠沼郷土資料展示室の編集協力により連載してきました
次回は最終回
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